2025年末の退任発表、2026年1月の新時代
2025年5月、バークシャー・ハサウェイの年次株主総会で、ウォーレン・バフェットは自らの退任を発表した。94歳。半世紀以上にわたって世界最大のコングロマリットを率いてきた男の、静かな幕引きだった。
バフェットは2025年末をもってCEOの座を退き、2026年1月1日付でグレッグ・アベルが新CEOに就任した。バフェットは取締役会長として残るが、日々の経営判断は完全にアベルの手に委ねられた。
この発表に市場は大きく動揺しなかった。後継計画は数年前から公表されており、アベルの就任は「予定通りの承継」だった。しかし、感情的なインパクトは別の話である。バフェットのいないバークシャーという現実を、投資家は初めて受け止めることになった。
60年で年率19.8%――1株7ドルから68万ドル超へ
バフェットがバークシャー・ハサウェイの経営権を握ったのは1965年。当時、衰退しつつあった繊維会社の株価は1株わずか7ドル程度だった。
それから約60年。バークシャーのクラスA株は1株68万ドルを超え、時価総額は1兆ドルを突破した。年率複利リターンは約19.8%。同期間のS&P500の年率リターン約10%を、毎年ほぼ倍にし続けた計算になる。
この数字の意味を実感するために、1965年に1万ドルをバークシャーに投資していたらどうなっていたかを考える。答えは約97億ドル。同じ1万ドルをS&P500に投資した場合の約3,300万ドルと比べれば、その差は約300倍である。
バフェットが残したものは数字だけではない。「株主への手紙」は60年分のアーカイブとなり、世界中の投資家にとって最も実用的な投資教育の教科書となった。率直な言葉で、複利の力、能力の輪、ミスター・マーケットの寓話を繰り返し語り続けた。
バフェットの本質的な功績は、資産を増やしたことではない。
「合理的に考え、長期で持ち、自分の能力の範囲内で判断する」
という原則が実際に機能することを、60年かけて証明したことである。
グレッグ・アベルとは何者か
グレッグ・アベルは1962年カナダ・エドモントン生まれ。アルバータ大学で商学の学位を取得し、会計士としてキャリアを始めた。
1992年、カルエナジー(後のミッドアメリカン・エナジー、現バークシャー・ハサウェイ・エナジー=BHE)に入社。2008年にBHEのCEOに就任し、同社をアメリカ最大級のエネルギー企業に成長させた。太陽光・風力発電への積極投資を主導し、再生可能エネルギー分野でバークシャーのプレゼンスを確立した。
2018年、バフェットはアベルをバークシャーの非保険事業全体の副会長に任命。これは事実上の後継指名と受け取られた。2021年には正式に「バフェットの後継者」として公表された。
アベルの経営スタイルは、バフェットとは異なる。バフェットが投資家であり、資本配分の達人であるのに対し、アベルはオペレーターである。現場を歩き、事業の細部を理解し、実行力で結果を出す。BHEでの実績がそれを証明している。
バフェット自身、アベルについてこう述べている。「グレッグは私よりもバークシャーのことを理解している。私が知らない事業の詳細を、彼は知っている」。
変わらないもの――バークシャーの構造的優位性
CEOが交代しても、バークシャーの根本的な強みは構造に埋め込まれている。
- 長期保有の文化――バークシャーは買収した企業を売らない。GEICO、See's Candies、BNSF鉄道。この「永久保有」の方針が、優れた企業を引き付ける磁力となっている
- 分散した事業ポートフォリオ――保険、エネルギー、鉄道、製造業、小売。70以上の子会社が独立して運営され、単一の事業リスクに依存しない
- 保険事業のフロート――約1,680億ドルのフロート(保険料として預かり、保険金として支払うまでの間に運用できる資金)が、事実上コストゼロの投資資金として機能する
- 現金ポジションの戦略的活用――2025年末時点で3,340億ドル超の現金・短期国債を保有。これは臆病さではなく、次の大きな機会に備える戦略的な待機である
- 分権経営――各子会社のCEOに大幅な自律性を与え、本社は資本配分に集中する。この構造はCEO個人に依存しない
これらの構造的優位性は、バフェットが数十年かけて築いたものであり、アベルの就任によって失われるものではない。むしろ、オペレーターとしてのアベルの能力は、この分権型組織の運営に適しているとも言える。
変わるかもしれないもの――不確実性を認識する
承継を楽観的に見ることは容易だが、正直に不確実性も見つめる必要がある。
投資判断のスタイル。バフェットの最大の武器は、巨額の資本配分を一人で即断できる能力だった。2008年の金融危機でゴールドマン・サックスに50億ドルを投じた判断は、電話一本で決まった。アベルがこの種の直感的な大型投資判断を同じ速度と精度で行えるかは未知数である。投資判断については、バフェットの信頼する投資マネージャーであるトッド・コームズとテッド・ウェシュラーが担う可能性が高い。
株主への手紙の文化。バフェットの年次書簡は、単なるIR文書ではなく、投資哲学の伝道書だった。ユーモア、自己批判、率直な失敗の告白。この文化的資産をアベルが同じ形で継承するかは分からない。形式は続くかもしれないが、バフェットの声そのものは唯一無二である。
「バフェット・プレミアム」の剥落。バークシャー株には、バフェットの存在そのものに対するプレミアムが織り込まれていた。その分がいずれ調整される可能性は否定できない。ただし、これは企業価値の毀損ではなく、市場の期待値の再調整である。
商社株の今後。バフェットが2020年に開始した日本の五大商社株への投資は、バフェット個人の判断と信頼関係に基づいている。アベル体制でこの投資方針が維持されるかは注目点の一つである。
変化を恐れる必要はないが、変化がないと想定する必要もない。
不確実性を認識した上で保有するのと、
不確実性を無視して保有するのでは、意味がまったく異なる。
バフェットと日本――商社株と「50年売らない」
2020年8月、バフェットは伊藤忠商事、丸紅、三菱商事、三井物産、住友商事の日本五大商社の株式をそれぞれ5%超取得したと発表した。バークシャー初の本格的な日本株投資であり、世界の投資家を驚かせた。
バフェットはこの投資について「50年でも売らない」と述べた。商社のビジネスモデル――多角的な事業ポートフォリオ、資源・エネルギーへのエクスポージャー、安定したキャッシュフロー――がバークシャー自身の構造と似ていることを評価した。
2023年4月には東京を訪問し、各商社のトップと直接面会。保有比率の上限を当初の9.9%から引き上げる方針を示した。2024年にはさらに買い増しを進め、主要商社での保有比率は8〜9%台に達した。
2026年3月、バークシャーは五大商社株のさらなる買い増しを発表し、一部銘柄で保有比率が9%を超えた。これはアベル新CEO体制になって初の大きな投資行動であり、商社株への長期コミットメントがCEO交代後も継続することを市場に示した。
日本市場への影響も大きい。バフェットの商社株投資は、海外投資家が日本株を再評価するきっかけとなった。東証のPBR改善要請と相まって、日本企業のガバナンス改革と株主還元強化の流れを加速させた。バフェットの投資は、単なるポジションではなく、日本市場に対する信認の表明でもあった。
原則は人物ではなく、構造に宿る
バフェットの退任に際して、投資家が問うべき本質的な問いは「バークシャー株を売るべきか」ではない。「バフェットから何を学んだか、そしてその学びは人物に依存するものか」という問いである。
バフェットが60年かけて実証した原則を振り返る。
- 理解できるビジネスに投資する
- 長期的な競争優位性(moat)を持つ企業を選ぶ
- 信頼できる経営者に任せる
- 適正な価格で買う
- 売らなくていいものは売らない
- 自分の能力の輪の外に出ない
- 市場の短期的な感情に振り回されない
これらの原則は、バフェットが去った後も有効である。なぜなら、これらは一人の天才の直感ではなく、ビジネスと市場の構造に基づいた論理だからだ。
バークシャー株の今後については、構造的な強みが維持される限り、長期的な投資対象としての魅力は大きく損なわれないだろう。短期的にはバフェット・プレミアムの調整があり得るが、3,340億ドルの現金、1,680億ドルのフロート、70超の優良子会社群という事実は変わらない。
むしろ重要なのは、バフェットの教えを「バフェット株を買うこと」と同一視しないことだ。バフェットの教えは、自分自身の投資判断を改善するためにある。誰かの真似をすることではなく、自分の頭で考え、自分の能力の範囲内で判断し、長期で持つこと。それがバフェットの本当の遺産である。
バフェットの最大の教えは、投資の銘柄ではなく、投資の態度にある。
原則は人物に宿るのではない。
原則を実践する一人ひとりの投資家に宿る。