なぜ今この人を読む価値があるか
長期投資家にとって、最も重要な判断の一つは「この経営者に資金を預けられるか」という問いだ。財務指標は過去を語るが、経営者の思想は未来の判断を規定する。
稲盛和夫の思想は、経営者の質を見極めるための一つの基準線になる。「利他の心」は美しい標語ではなく、実際に三つの異なる企業で結果を出した実証済みの判断原理だった。アメーバ経営は、全員が数字を見る仕組みを組織に埋め込んだ。京セラフィロソフィは、数万人の判断基準を揃えるための言語だった。
投資先の経営者を評価するとき、「この人は何を基準に意思決定しているのか」を読めることは、PERやROEを読むことと同じくらい重要だ。稲盛の思想を知ることは、その読解力を養う訓練になる。
判断の核
稲盛和夫の経営思想は、いくつかの柱で構成されている。いずれも抽象的な理念ではなく、日々の経営判断に直結する実践の体系だった。
京セラフィロソフィ——「人間として何が正しいか」
あらゆる経営判断の基準を、損得ではなく「人間として正しいかどうか」に置く。嘘をつかない、人を騙さない、正直であること。一見すると当たり前のことだが、利害が錯綜する経営の現場でこの原則を貫くことは、並大抵ではない。京セラの数万人が共有する判断基準として、フィロソフィは言語化され、浸透させられた。
アメーバ経営——全員参加の経営
組織を6〜7人の小集団(アメーバ)に分割し、それぞれが独立採算で運営する仕組み。全員が自分のアメーバの収支を把握し、経営者の視点で判断する。これにより、大企業でありながら中小企業の機動力と当事者意識を維持した。
利他の心
自分の利益よりも他者の利益を優先する。この思想は仏教の影響を受けているが、稲盛はそれを経営の文脈で実践した。JAL再建を無報酬で引き受けた判断も、盛和塾で15,000人の経営者に教え続けた行動も、この原理から出ている。
経営の方程式
能力には個人差がある。熱意にも差がある。しかし「考え方」だけはマイナスにもなりうる。どれほど能力が高く熱意があっても、考え方が間違っていれば結果はマイナスになる。掛け算であるがゆえに、考え方がすべてを規定する——稲盛はそう説いた。
最も困難な判断
2010年1月、日本航空は会社更生法の適用を申請した。負債総額2兆3,000億円。戦後最大級の経営破綻だった。
政府からの要請を受け、稲盛和夫は78歳でJALの会長に就任する。報酬はゼロ。航空業界の経験もゼロ。周囲の多くが「無謀だ」と見ていた。
同時に、全従業員の約3分の1にあたる16,000人のリストラが断行された。不採算路線の廃止、機材の縮小、組織の再編——痛みを伴う構造改革だった。しかし稲盛が最も注力したのは、数字の改善ではなく意識の改革だった。京セラフィロソフィをベースに「JALフィロソフィ」を策定し、全社員への浸透を徹底した。アメーバ経営を導入して路線ごと・便ごとの収支を「見える化」し、一人ひとりが自分の仕事の採算を意識する組織に変えた。
結果は劇的だった。就任から1年で営業利益1,884億円を計上。これは航空業界の世界記録だった。2012年9月、JALは東京証券取引所に再上場を果たす。破綻から2年7ヶ月。異例の速さだった。
この再建が示したのは、経営の原理原則は業種を超えるという事実だ。セラミックも通信も航空も、人が組織をつくり、判断し、動くという構造は変わらない。稲盛は、その構造の核にある「考え方」を変えることで、組織全体を変えた。