何が起きたか --- 経済学の革命
1936年、ジョン・メイナード・ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版した。それまでの経済学の常識を根底から覆す一冊だった。
古典派経済学は「市場に任せれば、価格と賃金の調整を通じて経済は自動的に完全雇用に戻る」と考えていた。しかし大恐慌は、その楽観を完全に否定した。失業率25%が何年も続く現実を、古典派は説明できなかった。
ケインズの主張は明快だった。不況期には、企業も家計も支出を減らす。支出が減れば所得が減り、所得が減ればさらに支出が減る。この「縮小の連鎖」を断ち切れるのは、利益動機で動かない主体 --- すなわち政府だけだ。
なぜこの理論が必要だったか --- 古典派の破綻
世界大恐慌は、既存の経済理論への信頼を粉砕した。
古典派経済学の「セイの法則」は「供給はそれ自身の需要を生む」と主張した。つまり、生産されたものは必ず売れる。失業は一時的で、賃金が下がれば企業は再び人を雇う、と。
しかし現実は違った。賃金が下がっても、物価が下がっても、企業は人を雇わなかった。需要そのものが消失していたからだ。将来への不安が消費と投資を凍結させ、経済全体が縮小均衡に陥った。
ケインズはこの状態を理論的に説明し、処方箋を示した。それが「有効需要の原理」だった。
核心的な概念 --- 有効需要・乗数効果・流動性の罠
- 有効需要 --- 経済の産出量を決めるのは供給側ではなく、需要側。需要が不足すれば、たとえ生産能力があっても経済は縮小する
- 乗数効果 --- 政府が1億円支出すると、その所得が消費を生み、さらに所得を生む。最終的なGDPへの効果は1億円以上になる
- 流動性の罠 --- 金利がゼロ近辺まで下がると、金融緩和は効果を失う。現金を持っていても機会費用がないため、人々は投資に回さない
- アニマルスピリッツ --- 投資家の意思決定は合理的な計算だけでなく、「楽観」や「悲観」という感情に左右される
「長期的には、我々は皆死んでいる」--- ケインズの有名な言葉は、「市場の自己調整を長期的に待て」という古典派への痛烈な批判だった。今苦しんでいる人々に「いずれ回復する」は答えにならない。
何が変わったか --- 「大きな政府」の誕生
ケインズの理論は、戦後の経済運営を根本的に変えた。
- 財政政策の中心化 --- 不況時には政府支出を増やし、好況時には引き締める。景気循環を政府が管理するという発想が定着
- ブレトンウッズ体制 --- ケインズ自身が設計に深く関与した戦後の国際金融秩序。IMFと世界銀行の創設
- 社会保障制度の充実 --- 失業保険や年金は、不況時の「自動安定化装置」として機能する。ケインズ理論がその理論的根拠を提供
- 完全雇用の政策目標化 --- 失業は「個人の問題」ではなく「政府が解決すべき問題」になった
1950年代から1970年代にかけて、ケインズ経済学は先進国の政策の主流だった。ニクソン大統領が「我々は皆ケインジアンだ」と語ったほどだ。
批判と限界 --- スタグフレーションの衝撃
ケインズ経済学は万能ではなかった。1970年代、インフレと不況が同時に進行する「スタグフレーション」が発生し、ケインズ理論では説明できない現象に直面した。
ミルトン・フリードマンに代表されるマネタリストは、財政政策より金融政策を重視すべきだと主張。政府支出の拡大はインフレを招くだけだと批判した。
しかし2008年のリーマン・ショックでケインズは「復活」した。金利がゼロに達し、「流動性の罠」が現実のものとなったとき、各国政府は大規模な財政出動に踏み切った。ケインズの理論は、危機のたびにその有効性を示し続けている。
関連用語
有効需要 --- 実際に購買力を伴う需要。経済の産出量を決定する
流動性の罠 --- 金利がゼロ近辺で金融政策が効かなくなる状態
乗数効果 --- 政府支出が波及的にGDPを増加させる効果
財政政策 --- 政府支出と課税による経済調整の手段
完全雇用 --- 働きたい人が全員職を得ている状態(摩擦的失業を除く)
アニマルスピリッツ --- 合理的計算を超えた、投資家の楽観・悲観の心理